【恋するキューピッド?】










「――あーもうッ! なんであいつに勝てないのよッ!?」

 少し前まで新緑を湛えていた森の木々も、徐々に紅みを増し始めたとある秋の日の事。此処香霖堂はある意味いつもどおり、僕にとってありがたくない騒がしさに包まれていた。

「君も中々だとは思うけどね、しかしアレはそもそも規格外なんだろう」

 彼女の、半ば口癖と化している叫びを、しかし僕はすっかり温くなってしまったお茶と共に流す。見ればやはりと言うべきか、彼女が如何にも苛立ったような眼差しで僕を睨んできている。が、しかしそれもいつもの事なので、僕は今更気にはしない。

「はい、終わったよ」

「…………ありがと」

 期待したような反応を僕が取らなかったからか、不貞腐れたように顔を顰めていた彼女は、しかし僕がそれを差し出すと素直に受け取り、ぼそりと礼を述べる。

「しかし、いい加減君も諦めたらどうだい? 此処に来る度に服の修繕をさせられるのは、正直疲れるよ」

「なによ、毎回しっかりお代取る癖に」

「それはそれ、だ」

 同じく服の修繕を頼んでくる霊夢と違って、彼女は一応はちゃんと代金を支払ってくれる。……まぁ、来る度に騒がしいのは変わらないので、僕の中では客ではあっても上客と呼ぶほどではないのだが。

「……ふぅ、やっぱりこっちの方がしっくりくるわね」

「当然だろう。それは君の服なんだ」

 いつの間にか着替えていたらしい彼女が、ホッと安堵の息を吐きながらそれまで着ていた服――僕の寝巻を丸めて放り投げてきた。おいおい、せめてきちんと畳むくらいはしてくれ――そういったところでどうせ無駄なのだろう。だって、今までに何度も言った結果がこれなのだから。

「……何よ、何か言いたそうな顔ね?」

「いや? 僕は出す物を出してくれるなら、それで構わないよ」

 最低限は、だが。しかしそれを口に出したなら、また彼女は口喧しく文句を言ってくるだろうから、それ以上は言わないのだが。

「ひぃ、ふぅ、みぃ……。うん、ちゃんと全部あるね」

「当り前でしょう? 私が今まで誤魔化した事ある?」

「信用していない訳じゃないけどね。……まぁ、後で足りないと気づいても困るからな」

 今回もきっちりと修繕費を払ってくださったお客様――比那名居天子は、まるで生き返ったと言わんばかりに満足げな面持ちで『んー』と背を伸ばす。その穏やかな表情は年頃の少女そのもので、彼女の事を知らない者にはきっと言わなければ、彼女が妖怪すらも恐れさせる人間の成れの果て――天人だという事に気づきはしないだろう。
 ……尤も、それは彼女自身が天人らしくない、というのもあるのだが。





* * *





 ――僕が天子と出会ったのは、夏の始めにあった異変も終結し、超局地的地震によって倒壊したという博麗神社が、完全復興を果たしてから暫く経った頃の事であった。その異変の首謀者であった彼女は、霊夢を筆頭に幻想郷の主だった面々にフルボッコ喰らったりもしたが、それを気に掛けず(仕返しはきっちりしたらしいが)幻想郷のあちこちを飛び回っていた。なんでも、退屈な天界と違って地上は面白い物に満ち溢れているから、それを探すのが楽しかったらしい。そんな中、彼女がふらりと立ち寄ったのが、この香霖堂であった訳だ。


「最初見た時はゴミ屋敷かと思ったわね」

「せめて宝の山と言ってほしいな」



 その言葉通り、彼女は最初そこを単なる廃屋だと思って素通りしようとしたそうだ。だが、霊夢が以前森の入口にある店≠ノついて話していた事を思い出し、立ち寄ってみる事にしたのだとか。


「霊夢は此処を『タダでお茶をくれたりタダで服を直してくれたり、色々と便利な店』と評してたわね」

「僕はタダにしたつもりはないけどね。ちゃんと今までの分は全部ツケとして記録してあるよ。……そもそも、それはもう店じゃないだろう」



 しかしそうして立ち寄った香霖堂には、先客がいた。それだけならば普通は特に問題がある訳ではない。ところが、その先客というのが天子にとって非常に因縁深い奴だったのだ。


「なんであの隙間がいるのよッツ!?」

「一応、彼女も此処には度々訪れるんだよ」



 とはいえ、その頻度は精々月に一度か二度。にも拘らずこうして出くわしてしまうとは……運が悪いのやら良いのやら。先の異変の際、唯一本気を出しても敵わなかったという紫に、敵意を剥き出しにする天子。一方の紫はというと、如何にも面倒臭そうな面持ちであり、適当にあしらってさっさと帰りたい、と小声でぼやいていたのが僕の耳にも届いた。それが天子にまで届いた訳ではないだろうが、しかし紫の態度から馬鹿にされていると感じ取ったのだろう。ますます彼女はいきりたって紫に弾幕ごっこを仕掛けようとしたのだ。
 それ自体は彼女達の問題なので僕が口出しする事ではないのだが、しかし二人がいるのは言うまでもなく、香霖堂の店内だ。放っておいたら、店が倒壊しかねない。その事を紫が危惧してくれたのかは解らないが、やれやれと面倒そうにしながらも戦場を店の外に移してくれたので、結局被害は大した事なかったのだが。


「というのも、存外早く決着がついたからでもあるのだけどね」

「…………」



 今になって思えば天子も決して弱くはなく……むしろ結構強い部類なのだが、しかしその時の紫は彼女に態々付き合ってやるほど暇ではなかったのだろう。一瞬だった。見てて思わず感心してしまうほどに瞬殺だった。あっさりと天子をダウンさせた紫は最後に僕に一言挨拶して、そのまま隙間へと帰ってしまった。残されたのは、呆気に取られる僕と完全に気絶している天子のみであった。


「で、結局放置しておくのも色々と気が引けたから、君を店の奥に運んで手当と服の修繕をしたんだったか」

「まさか、起きたらいきなり請求書を渡されるとは思わなかったわよ。しかも高いし」

「服の修繕と傷の手当て、そしていきなり店の中で弾幕ごっこを始めようとした事への迷惑料も込みだから、別に高くはないだろう」



 まぁ、なんだかんだと文句を言いつつもしっかりと払ってはくれたのだが。そしてそれ以来、彼女は度々この香霖堂を訪れるようになり、現在に至るのである。





* * *





 カランカラン、とカウベルの音が響いたのは、服の修繕も終わり僕も(ついでに天子も)のんびりし始めた頃であった。

「はーい、いらっしゃいませー」

「……何故君が出るんだ?」

「あら良いじゃない。普段から世話になってるお礼よ?」

 ……それなら、何か買ってくれた方が何倍もありがたいのだが。とは思うものの、言ったところでどうせ無駄だろうし、今は来訪者の相手をするのが先だ。

「改めて……いらっしゃいませ。今日はどんな御用で?」

「何か面白い物が入荷してないかと……ですが、すぐに目的は果たされましたね」

 ちらり、と天子へと視線を向けた来訪者――永江衣玖は、クスクスと上品な、それでいて怪しさを感じさせない笑みを零す。彼女の視線に気づいたのだろう、少し罰が悪そうに天子は唇を尖らせた。

「なんか馬鹿にされた気がするわね……」

「気の所為です」

 流石は『空気を読む程度の能力』と言ったところか。怒らせない程度に天子をスルーしながら、何か良さげな物はないかと辺りを見渡して行く。それを暫く続けているうちに、彼女は僕の目の前へと辿り着いた。

「何か良い物は有りましたか?」

「そうですねぇ……」

 んー、と顎に手を当てて思案する様を見る限り、今回は彼女のお眼鏡に叶う品はなかったようだ。残念。

「ふむ、とはいえ折角来たんだ。お茶でも如何かな?」

「あら、宜しいんですか?」

 日頃此処に屯するような連中と違って、彼女は正真正銘のお客様だ。それくらいのサービスはするさ。

「……む」

「あらあら、それじゃあ折角ですし頂きましょうかしら」

 ニコニコと楽しそうに笑みを零す衣玖に、僕も思わず釣られて頬が緩む。あぁ、礼儀正しいのに胡散臭くないとは、実に素晴らしい。どこぞの妖怪少女にも見習って欲しいものだ。





 そんなこんなで気付けば話も弾み、彼女が店を出たのは結局日も暮れ始めた頃であった。ふむ、少し彼女を引き止めすぎただろうか。まぁ、龍神の使いだと言う彼女との会話は僕の知識欲が非常に刺激されて、実に有意義なものだったから良しとしよう。

「随分とご機嫌ねぇ……私を相手する時とはえらい違いだわ」

「そりゃあ、彼女は騒ぎもしないしちゃんと買い物もしてくれるし……客としては最上級だよ」

「……む、私だってちゃんと買物するわよ?」

「そうだね。その点は僕も好ましく思ってるよ」

 しかし、騒がしさという点については某客じゃない常連二人とタメを張れる程度だ。一応『客』には分類出来るが、上客には程遠い。この娘はもう少し、淑やかさを持つべきだ。仮にも良家の子女らしいし。

「仮にも、って何よ? 私はれっきとした比那名居家の跡取り娘よ?」

「そう言えばそうだったね」

 ついでに言えば、あれで魔理沙も人里一の商家の娘だったな、とか思いだしたりもしたが……今はどうでも良いな、うん。

「……はぁ、何で私はこんな奴の所に入り浸ってるのかしら……?」

「? 何か言ったかい?」

 僕が一人納得していると、天子が小さく息を吐いて何か言っているのが聞こえない。何処となく呆れられているような気がしたが、良く聞こえない。なので訊いてみたが、何故かきぃッ、とやたら鋭い眼差しで睨みつけられてしまった。……なんなんだ、一体。僕が首を傾げていると、彼女はコホンと小さく息を吐き表情を整えた。

「と、兎に角……あんたは衣玖の事がお気に入り、って訳なのね?」

「……何でそんな事を訊くのかが解らないが……まぁ、間違ってはいないね」

 先にも言った通り、騒がない、買い物をする、胡散臭くない……等々。彼女は訪れる頻度こそ咲夜に一歩劣るが、客としての質は同等かそれ以上だ。商売人として、そして人として(半人半妖だけど)彼女を嫌う理由がなかった。

「ふぅん……」

 僕の言葉を聞いて、何やら彼女は顎に手を当てて考え始めた。……なんだろうか? 余り良い予感はしない。例えるなら、隙間妖怪やら妖怪兎やらを相手にしている時のようだ。……あ、いやそれは少し言い過ぎか。兎も角、僕は何となく彼女が何か良からぬ事を考えている、と感じ――


「良しッ! 私に任せなさないッ!」



 そしてそれは事実だったようだ。果たしてどういう思考の果てにその結論に達したのか、そもそも何をしようというのか……等々色々とツッコミ所は満載であったが、しかし気づいた時には既に天子の姿は店の中から影も形もなくなっていた。

「……やれやれ、面倒な事にならなければ良いが」

 そのささやかな願いは決して叶わないんだろうなぁ、と理解しつつも、僕は溜息を零さずにはいられないのであった……。





* * *





 そして翌日。

「さっそく始めましょうか」

 と何時も通りやってきた天子は、何時も通り唐突に訳の解らない事を言い始める。頼むから、ちゃんと主語を入れてくれ、とは僕でなくとも思うだろう。しかし彼女――というか僕の知り合いの少女達全般に言える事だが――は人の話を聞かない事にやたらと定評がある。きっと、僕のこの願いも何事もなかったかのように聞き流されるんだろうな。

「……とりあえず、ちゃんと主語を入れて喋ってくれ」

 それでも、言わずにはおれないのだけど。すると彼女は、指を数度振って小馬鹿にしたような笑みを向けてきた。

「心配しなくても、私の言う通りにしてれば必ず上手く行くわよ」

「…………」

 ほらな?





 ――カランカラン。

「ほら、来たわよ」

「解ってるよ……はぁ。……いらっしゃい」

 天子が香霖堂を訪れてから暫くして、今度は衣玖がやってきた。普段であれば、茶の一つでもご馳走するくらいにありがたい来客ではあるが……今日に限っては、何で来たんだと理不尽な問いを掛けたくなる気分にしかならない。それもこれも、物陰からこっそり様子を窺っている不良天人の所為だ。もし何かあったら、損害賠償を請求してやろう。うんそうしよう。

「あらあら……?」

「……どうかしましたか?」

「いえ……総領娘様に此処に来るようにと言われたんですが……」

 衣玖はきょろきょろと辺りを見渡すが、どうやら見つからないようだ。一応、あれはこの店の中にいるのだが……幾分、商品が所狭しと置かれているものだから見通しが悪い。簡単に見つからないのも、いた仕方ない事だろう。……僕としては、さっさと見つけて持って帰ってほしいものだが。とはいえ、もしばらしたりしたら全人類の緋想天よ、などとマジな顔で言われたから仕方ない。あぁ、そうさ仕方ないんだ。どう考えても僕は純度百パーセントの被害者なんだからな。

「あぁ……彼女なら何か急用が出来たとか言って、何処かへと行ってしまったよ」

 そうですか……、とまるで困っていないような表情で困ったと零す彼女に、僕はこっそりと息を零す。やれやれ、何でこんな三文芝居をする必要があるのやら……。

「まぁ、折角来たんだしお茶でもどうかな? もしかたらアレもそのうち来るかもしれないよ」

「ふむ……それではご馳走になりましょうか」

 ……昨日も同様のやり取りを平然としていた筈なのに、今日はやたらと疲れるのは何故だろうな? まぁ、間違いなく物陰から趣味の悪い笑みを浮かべた奴の所為なんだろうな。





「――三十点、ってところね。お茶に誘った所までは良いけど、そこからは昨日と変わらないじゃない」

「やれやれ、君の言った通りやっただけだろうに……」

 既に空も紅く染まった逢魔ヶ時。衣玖が店を出るのを確認してから、ようやく物陰から出てきた不良天人は、僕の前に来るなりやたらと不機嫌そうな眼つきでそう言った。まったく……結局彼女は、今の今まで物陰からこっそりと僕等を観察していたのだ。そんな彼女に、僕は趣味が悪いと呆れる以前に、何時間とその状態を維持し続けた彼女の無駄な根性に感心すら覚える。

「これでも最初だから甘めに採点したのよ?」

「ふむ、それで高得点を出したら、僕に何かメリットはあるのかい?」

「そうねぇ……とりあえず良く出来ました、って頭撫でてあげるわ」

「遠慮するよ」

 まったく……何故僕はこんな奴に付き合ってるのやら……。どうせ彼女にとっては、単なる暇つぶしなのだろう。さっさと飽きてほしいものだが、逆に言えば飽きるまで僕は振り回される訳だ。厄介な事この上ない。
 こうして、天子が僕に『授業』と称して、あれこれ理不尽に要求してくる日々が始まったのであった。





* * *




「……それで? 今日は何をすれば良いんだい?」

「そうねぇ……」

 その日も僕は、早朝からやってきた天子に叩き起こされて『授業』とやらを受けていた。いい加減勘弁してほしいものだが、しかし流石にこんな生活を一週間も続けていれば多少は慣れる。適度に彼女の話を聞いて、適当に聞き流す。それで僕に来る疲労度は最低限に抑えられた。まぁ、疲れる事には変わりないのだが。

「とりあえず、まずは朝御飯にしましょう? 腹が減っては戦は出来ず、よ」

「別に僕は戦いに赴く訳じゃないけどね……」

 これもまた最近では日常になりつつある、彼女との食事。別に以前から霊夢や魔理沙と食事を取る事も少なくなかったから、それ自体には何とも思わないが……逆にそれが妙な違和感となって僕を襲っていた。何だか、どんどん彼女が僕の日常に侵食していくようだ。

「流石霖之助ね、今日も良い味だわ」

「御誉めに預かり恐悦至極。……だが、僕は大した腕は持ってないよ。それなりに作るから、不慣れではないけどね」

 元来僕は生命維持の為に食事を取る必要がない。その為、お酒を楽しめる最低限の味を出せればそれで良いのだ。しかしそれでも、目の前の少女を始め僕の料理を口にした連中は、皆旨いと言ってくれる。まぁ、それは普通に嬉しいけどね。

「そんなに謙遜する必要ないわ。貴方の料理は天界の身体には良いけど味が最高に悪い食べ物に比べれば、充分上よ」

「……誉められてるのか今一解らないな」

「一応誉めてあげてるわ」

 つん、と澄ましたように言って彼女はズズ、と味噌汁を啜り具の丸茄子を口に運ぶ。途端、ほぉ、と穏やかな笑みを浮かべて息を零した。……一応、ね。何となく僕も穏やかな心地になりつつあったが、しかしそれは決して長くは続かなかった。

「それで、今日の事だけどね」

「…………はぁ」

 このまま忘れてくれれば、と何時も思うが、しかしそう上手く行ってくれた事は一度たりともなかった。やれやれ……何でそこまで固執するのやら。
 ――彼女は今、何故か僕と永江衣玖をくっつけようとしているらしい。何でそんな考えに至ったかは知らないし興味もない。どうせ暇潰しだろう。だが、迷惑な事に変わりはない。今まで彼女の言葉に従ってみたが、まったく碌な事がなかったしな。


 作戦一:曲がり角で激突――空気を読んだ衣玖がするりと避けて僕だけ地面にダイブ。鼻血が出た。

 作戦二:うっかり躓いて押し倒す――空気を読んだ衣玖がするりと以下略。

 作戦三:殴り合いの果てに生まれる友情――空気を以下略。


 等々他にも色々。そしてそれがどれも何処か覚えのあるシチュエーションだと思ったら、以前彼女が此処で買って行った少女漫画の内容をそのままなぞっているだけのようだ。そんなんでどうにかなるほど、男女の仲は簡単ではない。……後、最後のは何か違うだろ。

「そうねぇ……今回は羽衣伝説を参考にしてみるのはどうかしら?」

「羽衣伝説?」

 というとあれか――天女の美しさに心を奪われた男が、彼女を天に返さないようにと羽衣を隠してしまう。その後男は天女を娶り子も成すが、やがて天女は隠されていた羽衣を見つけて天に帰ってしまう、と云うものだったか。伝えられる土地によって細かい話の内容は異なるが、大まかにはこんな感じの伝承である。

「……君は僕に、彼女の服を盗めと?」

「まぁ、伝承になぞるならその通りね……あたッ」

 何故か自信満々に薄い胸を張る少女の頭へと、無言で手刀を叩きこんでやる。思った通り、中身が余り詰まっていないような軽い音がした。

「な、何するのよッ!?」

「……君は馬鹿か?」

 いきなり他人の、それも女性の服を盗めなどと……悪ふざけにもほどがある。

「う……わ、解ってるわよ。あくまで例えよ」

「なら良いけどね」

 彼女の言う事に素直に従ってやるのが、一番面倒でなくて良いと思っていたが、もし今後彼女の行動がエスカレートしていくようなら、それも考え直さなければならないな。まぁ、これで中々に聡明な少女だからやって良い事と悪い事の判断くらいはつくだろう。その程度には、彼女の事を信用している。

「さて、と……ご馳走様ッ!」

「あぁ、お粗末さまでした」

 そうこうしているうちに僕も天子も食べ終わり、食後のお茶を楽しみ始めていた。チチッ、と外から届く雀の鳴き声に耳を傾けながら、お茶を啜る。程良い苦みが口の中に広がって、何ともいえない穏やかな心地を堪能していた。

「……って、そうじゃないでしょ!?」

「おわッ、いきなり驚かさないでくれ。お茶が零れそうになっただろ」

「あ、ごめんなさい。……って、だからぁ!」

 再び吠えながら、勢い良く立ちあがる天子。おぉぅ、今度は本当にお茶が数滴零れてしまった。手と脚に掛かって、結構熱い。近くにあったタオルでそれを拭いながら、僕は目の端を鋭く釣りあげる少女へと視線を向けた。

「だから、そうじゃないって言ってるでしょう!? まったく……何で自分の事なのにこんなにやる気がないのかしら?」

 自分の事だからこそやる気がないのだが。その後も暫く今日はあーするこーすると一人盛り上がる少女の言葉を、意識半分に聞き流しながら、僕は外出の準備へと取りかかる。

「……? 何処か出掛けるの?」

「あぁ、今日はちょっと里の方に用事があってね」

 そんな訳で戸締りの為にも天子には帰って頂きたかったのだが――





「ふぅん、こっちに来たのは久しぶりだけど、相変わらず賑やかね」

 人込みで雑多する真昼の人里。その大通りの中心で、人間の成れの果てたる少女は感心したように息を零した。以前、天界は既に飽和状態と聞いた事がある。だが実際の所は、土地が有り余っている状態らしい。このように、肩と肩がぶつかるほどに人が密集した場所、というのは天人の彼女には珍しいのだろう。

「さて、それじゃあ何処に……って、何先に歩きだしてるのよ!?」

「何って……君が勝手についてきたんだろう? 僕が態々待つ理由はないよ」

 そう言って、僕は目的地の方へと足を動かす。後ろから、天子もついてくる気配を感じたが……さてさて、どうしたものやら。別に彼女が邪魔という訳ではないが、かといってついてこられても困る。後で何か奢らされそうだからな。と、そんな事を考えているうちに目的地に辿り着いた。

「霧雨道具店……此処に用事があるのかしら?」

「……あぁ」

「それにしても霧雨、ねぇ……何だか聞き覚えがあるわ」

 それはそうだろう。此処は君も良く知る魔理沙の生家なんだからな。といっても、今は殆ど絶縁状態にあるようだが。やれやれ……親父さんも魔理沙も、頑固な所はそっくりだ。流石は親子、というべきか。

「なるほどねぇ、此処が魔理沙の……」

 喉に刺さっていた小骨が取れたかのように、疑問が解消した天子は感心した面持ちで里一番の店を見上げている。傍から見れば、大きな屋敷に目を奪われたおのぼりさんまんまだな。彼女も結構良い家の生まれだから、大きな屋敷くらい見慣れているだろうに。

「そんなのは当然でしょう! 寧ろ、比那名居の屋敷の方がもっと大きいわよ!」

 ガッ、と眦を鋭く釣りあげて反論する彼女を適当に流しながら、僕は店の中へと入って行く。表通りの喧騒に負けないくらい人の入りが激しい店内は、それなりの広さにも拘らず人の密度が濃い。これが人里で――即ち幻想郷で最も大きな商家の実力という奴だろうか? 僕も商売人の端くれだから、当然自分の店が繁盛してほしいとは思っているが……こう騒がしいのは考え物だな。まぁ、そんな事を思っているから道楽扱いされてしまうんだろうが。

「ん? おぉ霖之助来てたのか」

「呼んだのは貴方の方でしょう、親父さん」

 商品には目もくれず、一直線に勘定台の方に向かうと、目的の人物――霧雨の親父さんの方から、僕に気付いて声を掛けてきた。まぁ、妖怪を見るのも珍しくない昨今の人里でも、僕のこの銀の髪はそれなりに目立つからな。気づくな、という方が無理だろう。

「ふぅ、凄い人混みねぇ。誰かさんの店とは大違いだわ」

 と、丁度互いに挨拶を終えた所で、天子が追い付いてきたようだ。感心半分疲労半分、といった面持ちで、今抜けてきたばかりの人混みに視線を向けている。そんな彼女におや、と首を傾げたのは親父さんであった。

「なんだ霖之助、連れがいたのか?」

「連れ……というか勝手についてきただけですよ」

「ふぅん」

 何やら妙に含みのある表情を浮かべる親父さんに、僕は苦笑交じりに返した。何がそんなに珍しいのか、親父さんは傍から見たら少々怪しいくらいの眼つきで、彼女と僕へと交互に視線を向け、そしてうんうんと頷き始めた。

「な、何よ……ってか、貴方誰よ?」

 親父さんの視線に気づいた天子が、微かに顔を引き攣らせながらもキッと睨み返す。だが、親父さんはそれを気にした様子もなく再び納得したように頷き、そして――


「なんだ、嫁が出来てたなら俺にもちゃんと知らせろよ」



「「…………は?」」

 その瞬間、確かに僕と天子の時間は凍りついた。はて、近くに咲夜か輝夜かチルノはいただろうか? それとも親父さんは僕の知らぬ間に特殊な能力に目覚めたのだろうか? 彼の娘が娘なだけに、ありそうで困る。混乱して上手く考えを纏められない僕等に追撃を掛けるかのように、親父さんは言葉を続けて行く。

「てっきりお前は、何だかんだで上白沢の先生とくっつくもんだと思ってたが……。いやはや、何時の間にこんな若い娘を――」

「――ッ!!」

 親父さんが何を言ってるのか良く解らない……何故そこで慧音が出てくるんだ? 唯一つ解ったのは、天子が声にならない叫びを上げながら親父さんの姿を殴り飛ばす姿であった――


「やれやれ、思わず彼岸に渡っちまうかと思ったぜ」



 が、しかし数秒後……親父さんはあっさりと起き上がって見せた。いや、何でだよ?

「そ、そんな……私割と本気だったのよ!?」

 いや、君もそれはそれでどうなんだ? まぁ、僕もあれは不謹慎にも『あ、あれは死んだな』とか思ってしまったのだが。しかし現実には、こうして親父さんはピンピンしている。あぁ、やはりあの娘にしてこの親ありだな、うん。……そう思わないとやってられなかった。色々と。





「――偶にはそっちから顔出せよぉーッ!」

 表通りの喧騒にも負けないくらいに盛大な親父さんの声を背に、僕等は霧雨道具店を出る。見れば空はすっかり赤らみ、烏や天狗の鳴き声がじき夜が訪れる事を告げていた。これは、少し急がなければ香霖堂に着く前に暗くなってしまうな。やれやれ、親父さんの碌でもない勘違いの所為で長引いてしまった。元々の用件自体は大した事はなかったというのに。見れば、天子も疲れた様子でてくてくと僕の後ろを歩いている。里についてきたのは彼女の勝手なので、自業自得といえなくもないが。

「ふぅ……もう良い時間だし、何処かの食事処で夕食にするかい?」

「あ、うん……」

 余程疲れているのか、普段の快活さはまるで鳴りを潜め、ただ小さくコクンとだけ頷いてついてくる。……何だか、少し調子が崩れるな。

「まぁ、親父さんは昔からあんな感じだからな。慣れている僕でも少し疲れたよ」

 ポンポン、としょげる天子の頭を軽く叩いてやると、彼女は如何にも迷惑そうな、困ったような表情で睨みつけてきた。普段に比べれば幾分かそこに力が感じられなかったが、まぁ何時も通りの反応だろう。その事に微かな安堵を覚えながら、僕は適当な店の暖簾をくぐる。

「流石にこの時間は混んでいるな……」

 入ってみた店は、丁度夕食時という事もあるのだろう。霧雨道具店にも負けないくらい繁盛しているようだ。パッと見、空いてる席がないようだが……並んでいる客もいないし、少し待てば座れるだろう。この調子では他の店も似たような感じだろうし、此処で良いだろう。そう思って暫く待っていると、

「「あ」」

 店の一角に、見覚えのある顔を見つけた。





「珍しい所で会いますねぇ」

 グツグツグツ、と湯気を立て、周囲に何とも言えない良い匂いを振りまく鍋を挟んで、僕等と永江衣玖は対面していた。この店で偶然見つけた知り合いとは、言うまでもなく彼女の事であり、その結果こうして会い席となったのである。

「それはこっちの台詞だよ……」

「あらあら、私が人里で鍋を突いていては可笑しいですか?」

 そう言って鍋から、ほど良く煮えた鶏肉と白菜、エノキを取り分け汁を器に注ぎ、僕に渡してくる。最初は彼女一人だったので軽い食事程度だったらしいが、今は僕等もいるのでこうして鍋を注文したのだ。器からじかに鼻に届く良い匂いに、微かに僕の腹が鳴る。鍋のような目の前で調理する料理は、より人の食欲を刺激するのだ。

「意外、ではあるね。妖怪である事を差し引いても、君のその格好は中々に目立つ。このような庶民的な場所においては、かなり浮いてしまうほどにね」

 そうでもなければ、丁度書き入れ時で人が雑多する食事処で、一人でいる知り合いを発見する事は中々に難しい。とはいえ、言うほどに周りから注目を集めないのは、彼女の能力に因るものなのだろう。多分。
 ズズ、とまずは一口醤油ベースの汁を啜り、ほど良く柔らかくなった白菜を口へと運ぶ。一見しんなりとしながらも、中はシャキシャキと良い歯応えのそれは、味が良い感じに染み込んでいて旨い。続いて鶏肉を口に放り込む。皮部分のプリプリとした食感が心地良い。

「ふむ、この店に入って正解だったな。旨い」

「えぇ、幾ら今が書き入れ時とはいえ、それだけでは此処まで混みませんからね」

 衣玖もまた、自分の器から具を口へと運んで行く。普段からガサツな連中ばかり相手にしている所為だろうか。彼女の動作はやけに上品に見えた。

「……それにしても、今日は随分と総領娘様が静かですね」

 チラリ、と衣玖が僕の隣に座る少女へと視線を向ける。そう言えば、さっきから妙に静かだな。てっきり疲れている所為かと思ったのだが、それだけではないのか?

「……何よ?」

 僕等の視線に気づいたのか、天子がやけに不貞腐れたような表情で睨み返してくる。やれやれ、何がそんなに不機嫌なのやら。此処の食事が口に合わなかったのだろうか? 普通に美味しいと思うが、しかしこれは個人の好みも大きいからな。

「そんな訳ないわよ。勿論此処の食事は美味しいわ」

 そう言って、慌てたように器に盛られた具を掻き込んでいく。その様子は、何処か無理をしているようにも見えた――





* * *




「……天子の様子がおかしい?」

 そんな相談をされたのは、数日後の事であった。相談主である衣玖は、天子とは単なる知り合い程度の間柄であるようだが、しかし僕よりも遥かに彼女との付き合いは長い。気にならない訳がないのだろう。僕も少々、此処最近碌に顔を見せない彼女の事が少し気がかりであった。最近ずっと一緒にいた所為か、妙に落ち着かないのだ。

「えぇ、先日一緒に食事された時は、単に一時的なものとばかり思ってましたが……」

 確かにあの時の天子は妙に静かだったのが印象に残っている。彼女はあれで結構感情の起伏が激しい。ただ一時的に落ち込んでいるだけなら然程珍しくはないが、しかしこうして何日もその状態が続くのは、確かに普段の彼女からは中々想像出来なかった。

「それで僕の所に来た訳か。……だけど、残念ながら僕にも原因は解らないよ?」

「本当ですか?」

 ジッと、まるで何かを探るかのように、衣玖は僕へと真剣な眼差しを突き刺してくる。……はて、僕が何かしたであろうか? まぁ、天子の様子がおかしくなったのは僕と共に里に行った日からなので、もしかしたら僕に何か関係があるのかもしれないが。

「……はぁ、本当に心当たりがないようですね」

 僕があの日の事をより深く思いだそうとしていると、衣玖が何処か呆れたような色を含んで、小さく息を吐いたのが聞こえた。やれやれ、やはり彼女は僕に原因があると思っているようだな。

「役に立てなくて済まないね」

「いえいえ、これくらいは予想のうちですから」

 誰かさんを連想させるような、含みのある笑みを浮かべる彼女に、思わず僕は顔を顰める。何となく、嫌な予感がした。

「そうですね、折角の機会ですし……はっきりさせといた方が良いかもしれませんね」

「……? 一体何のこ――」

 チラリ、と一瞬衣玖が何処かへと視線を向けたのに気づくよりも早く、僕の視界が肌色に塗り潰される。そして遅れてやってきた、口への柔らかい感触。それが何なのか、理解するよりも先にカランカランと響くカウベルの音が、僕の耳に届いた――





* * *





 ――何となくつまらない。
 何となくそう思い始めたのは、何時くらいからだろうか? 割と最近の事なのは確かだが、細かい事は覚えていない。気づけば、私は一日中こんな調子で碌に外に出る事もなく過ごすようになっていた。つい先日まで熱中していた事も、今になれば何故あんなに熱心になっていたのだろう、と冷めた思考で思い返す。

「あーあ、退屈ね……」

 ゴロリ、と私は自室のベッドの上で転がる。この気分、何となく異変を起こす前に戻ったみたいだ。外に行って、地上に降りて何か楽しい事はないかと探したいが、しかし面倒臭さがそれに勝ってしまっている。そして、より退屈になっていく……無限ループだ。

「これじゃあ、駄目よねぇ……」

 原因が何かは解らないが、しかしこのままこうしていても何かが変わる事はないだろう。精々、今よりも悪くなるだけだ。面倒でも、動かなければ何も解決はしない。そう思い至った私は、ようやく重い腰を上げた。……けど、さてどうしようか? 何処かへ行こうという気にはなったけど、しかし何処へ行くかは全く考えていなかった。適当に飛んでいようか? それはそれで気分転換にはなるかもしれない。

「ま、とりあえず外に出てみましょうか」

 そうして、私は久しぶりに陽の光を直に浴びるのであった。





「――で、何で此処に来てるのかしらねェ」

 そう自嘲の笑みを零す私の前に佇むのは、もうすっかり馴染みの場所となった建物。幻想郷は無論天界でも余り見かけない、外の世界由来だという様々な物に半ば埋もれるようにして建つ、香霖堂。最初見た時はゴミ屋敷かと思ったし、今でも普通にゴミ屋敷に見える。そんな場所へと、私は気づけば辿り着いていた。

「考えてみれば、最近は殆ど毎日のように此処に来てたのよね……習慣って恐ろしいわ」

 自分を嘲るかのように私は肩を竦める。来てしまったものは仕方ないから、寄って行ってみる事にしよう。……そうは思うもの、一方で何故だか今すぐにでも此処を立ち去りたい自分がいた。何故? それはきっと、これから起こる事を伝えようとしていたのだと……後に私は思う。

「どれどれ、あいつはいるかしらね……?」

 引き返したい気持ちを気の所為だと押し込め、私は香霖堂へと歩を進めた。そして、そっと扉の小窓から中の様子を覗き込んで見る。中は薄暗く物で雑多しているが、しかしこの位置からなら勘定台までちゃんと見える筈だ。
 予想通り、そこにはあいつと――

「衣玖?」

 やはり見慣れた、しかしこの場においては少々予想外な人物の後姿が、私の眼に映った。いや、彼女も常連と言うほどではないが、度々此処に来ていたので珍しくはないのかもしれないけど。それにしても衣玖は何しに来たのだろう、と小首を傾げた瞬間、

「…………ッ!?」

 一瞬、しかし明らかに彼女は私の方へと視線を向けて、更にニヤリと笑って見せた。私がいる事に気付いている!?
 だけど、本当の衝撃はその直後であった。ゆっくりと、しかし半ば密着するようにしていた為に一瞬で距離を縮めた衣玖の顔が、霖之助の顔に覆い被さる。それは、中が薄暗いのと見ている角度的な問題で細かい部分までは見えなかったが……まるで、そう、それは唇を重ねているかのように思えた。


「…………え?」



 何……二人は何をしているの?
 それは、本来であれば最終的にそうなるよう仕向けていた筈の事。にも拘らず、私の心は激しく揺さぶられ、まるで地面が沼と化したかのように足元が覚束ない。何? 何なのこれ? 混乱の極みに陥る私に更に止めを刺すかのように、再び、衣玖の視線が私を捉える。その瞬間、思わず私は脚を縺れさせ、扉へと倒れ込んでしまった。

 ――カランカラン。





* * *




「…………ふぅ」

 コトリ、と湯呑を傍らに置き、胸の内から絞り出すように息を吐く。淹れたばかりだと思っていたお茶は、気づけばすっかり温くなってしまっていた。いかんな、最近はこんな風にぼんやりしている事が多くなった。原因は解りきっている。あの時の、衣玖の唐突で不可解な行動の所為だ。その時の事を思い出した所為か、僕は無意識のうちに自分の口を指でなぞっていた。そんな自分に、思わず自嘲の笑みが浮かぶ。

「やれやれ……何を今更、初心な童みたいになってるのやら」

 長命な妖怪には及ばないが、それでも僕は人の何倍もの時間を生きている。その中には当然、こう言った経験も少なからず存在していた。慣れてしまうほど経験豊富ではないが、しかしこうして慌てふためくほど、僕は初心ではなかった筈である。
 ……だが、衣玖の行動以上に僕の胸にくすぶっているのは、その後の事であった。何をされたのか理解が追い付かず、呆然とする僕の視界の先に移ったのは、まるで倒れ込むようにして店に入ってきた天子の姿。逆光で細かい所までは解らなかったが、彼女も僕同様に唖然とした表情を浮かべているようにも思えた。それが、無性に僕の胸に痛みを走らせる。そして、そんな僕等を如何にも可笑しそうに眺めていた衣玖が……不快で、印象的でもあった。

「……こうしていても気が滅入るだけだな。気分転換に散歩でもしてみるか」

 やれやれ、と息を吐きながら僕は膝の上に乗せていた本を閉じる。何かしていれば気も紛れるかと思って開いた本であったが、しかし気づいてみれば碌に頁は進んでおらず、また内容も全く頭に入ってきてはいなかった。未だ中身が残っていた湯呑を一気にあおり、僕は店の外に出る。さて何処に行こうか、と思うも特に目的はないのだから、適当に歩く事にしよう。





 ザクザクザク、と道なき道に覆い茂る草を踏み分けながら、僕は魔法の森を当て所もなく進む。適当に歩いてきたは良いが、これでは帰りに迷ってしまいそうだな……まぁ、この森は妖怪も気味悪がって余り近づかないから、他の場所に比べれば野宿の危険性は少ないのだけど。

「……そろそろ戻るか」

 とはいえ、僕としても望んで野宿をしたい訳ではない。そろそろ日も暮れてきたし、帰路についた方が良いだろう。そう思って、振り返った時だった。

「…………ん?」

 視界の向こう、森の少し開けた所に、見覚えのあるものが見えたのは。それはともすれば気づかないほどに一瞬の事ではあったが、偶然かはたまた必然か、僕の視界はそれを捉えた。もしかしたら気の所為だったのかもしれないが……。

「ふむ……」

 一度目に移った以上は、何となく気になってしまう。まだ本格的に暗くなるまで若干余裕があるし、見に行ってみよう。……それは、何処か急かされるような感覚であった。

「確かこの辺りに…………ッ!」

 それは、森の中に湧いている小さな泉の畔であった。陰険な雰囲気漂う魔法の森の中にあるとは思えない、清涼感漂う小さくも美しい泉。そこに、泉の水面よりも尚濃い蒼があった。泉の水面から反射する陽の光を浴びてキラキラと輝くそれはとても美しくて、僕は思わず息を呑む。

「…………あ」

 人の気配に気づいたのだろう。振り返った彼女と、僕の視線が重なる。

「珍しい所で会うね……天子」

 驚きで目を見開いている彼女に、僕は努めて平然とした調子で声を掛けてみる。とはいっても、油断すればすぐに声に震えが乗ってしまいそうなのだが。やたら緊張する。此処に来る直前から高鳴りつつあった鼓動が煩わしい。一体何だっていうんだ。

「それは僕の台詞だろう。天人の君には、此処は少々きつい場所なんじゃないのかい? 天人五衰的に」

 天人五衰=B
 天人の死の直前に現れるという、五つの兆しの事である。細かい説明は省くが、要約すれば天人の身体に穢れが現れる、という事だ。これは逆に言えば、天人は穢れに弱い、という事になる。そして魔法の森に生える化け物茸からは、人間はおろか妖怪にとっても危険な瘴気が放たれ、森中に充満している。穢れを嫌う天人にとっては、此処は普通の人間や妖怪以上に危険な筈だ。

「……別に、穢れた場所にいるからって即身体壊す訳じゃないわよ。健康な状態なら、充分耐えられるわ。……まぁ、気分の良いものじゃないけどね」

 何処か不貞腐れたように、僕の顔から視線を逸らしながら彼女は説明してくる。なるほど、確かにそれは尤もだ。そもそも、彼女の言う通り簡単に身体を壊すようなら、こんな森の中はおろか森の入口に立つ香霖堂にも近寄れない、という事だろう。……その事に、少しホッとする。

「それで此処にいた理由は……そうね、一人になりたかったから……かしら? 森には余程の物好きくらいしか近寄らないしね」

 確かに、此処は先にも述べた通り人間も妖怪も敬遠する場所だ。そしてそんな場所に居を置くのは、僕も含めて三人ほどでしかない。確かに、此処は幻想郷でも静かな部類に入る場所だろう。

「そしてその物好きに見つかった……という訳か」

「……そうなるわね」

 くッ、と互いに小さな笑みを浮かべあう。まぁ、物好きなのはお互い様だろう。よっこらしょ、と僕は彼女の隣に腰掛ける。途端に、身体が重く感じられた。のんびり散歩しているつもりで、しかし身体はすっかり疲労していたらしい。森の道とは言えない道を進んできたのだから、当然といえば当然だろう。

「……ふぅ」

「随分と疲れてるみたいね」

「あぁ、どうやらこの森は散歩コースには向かないらしいな。空気も悪いし」

 さてはて、何で僕は此処を散歩する事にしたのか……我ながら首を傾げざるを得ない。そんな僕を、彼女はクスクスと笑みを零しながら見つめていた。それが何となく気恥ずかしを生み、僕は彼女ではなく正面の泉に視線を向ける。徐々に赤らんできた陽の光を浴びて、水面も紅く染まって行く。じき、暗くなるだろう。もう少し休んでいたいが、そろそろ帰路についた方が良さそうだ。そう思い、とりあえず立ち上がろうとしたのだが、


「……あ」



 ギュッ、と袖口を掴まれてしまった。見れば、僕は元より天子も何起こったのか良く解っていないような、唖然とした表情を浮かべていた。半ば無意識からの行動だったようだ。

「……何だい?」

「あ、な、何でもないわよッ!」

 それ以上何をするでもなく、僕の袖を掴んだままの天子に声を掛けると、彼女はようやく気付いたかのようにばっと手を離す。その顔は、夕陽に染まる泉にも負けないくらい紅く染まっていた。

「そ、そういう貴方こそ、いきなり立ち上がって何するつもりなのよ!?」

「何って……そろそろ日も落ちるから帰った方が良いかな、と思っただけだよ。僕は君等と違って空は飛べないからね。流石に夜の森を歩き回るのは避けたいんだ」

「む……そう」

 僕が説明してやると、彼女は何処か不満げではあったが一応は納得してくれたらしく、袖から手を離してくれた。やれやれ、これで帰れる……とはいえ、この状態の彼女を置いて帰るのは、何となく気掛かりではある。……それに、先日の事も。

「とはいえ……そうだな、この森には妖怪の類も滅多にいないし、今の時期なら例え野宿になっても凍えはしないだろう」

 そんな風に、まるで自分に言い聞かせるようにして僕は再び腰を下ろす。その際、彼女がホッと胸を撫で下ろしたように見えたのは……果たして気の所為であろうか?





 ――ホォホォ、と何処からか梟の声が森に木霊する。気づけば辺りはすっかり薄暗く、木々の合間から差し込む月明かりがなければ、恐らくは少し先も見えないだろう。そんな状態ながら、僕と天子は特に気にもせずつらつらと会話を続けていた。しかし不思議と、先日の事は互いに話題には出さなかった。或いは、意識的にそうしていたのかもしれない。このまま有耶無耶にするのはいけないと解っているが、同時に敢えて話題に出すのも躊躇われたのだ。多分、今の僕等を客観的に見たら、一見平穏で……しかし微かに歪さが混じっているのを感じられた事だろう。

「……やれやれ、すっかり暗くなってしまったな」

「そうね、でも月明かりが泉の水面にキラキラと反射して綺麗だわ」

 確かに、と頷きながら僕は天子同様泉へと視線を向ける。化け物茸が群生し、その瘴気に溢れる魔法の森とは思えない美しい光景に、思わずほぉと感嘆の息を零す。それで気が緩んだのだろうか? ポツリと、彼女は零した。

「…………この前の、あれは……」

「…………ッ」

 途端、それまで微かな歪みを抱えつつも穏やかであった空気が、ピシリと固まった。それに気づいた彼女は、一瞬しまったと言わんばかりに顔を歪めて見せたが、しかしそれで決心がついたのか更に言葉を続けて行く。

「衣玖と……キス、してたの……?」

「…………あぁ、そうなるね」

 どう説明すれば良いか、色々と考えていた筈だがこの必要な時に限って上手く思い出せない。そもそも、良い答えが出なかった気もするが。その結果、僕はただ頷くだけに留めた。

「…………そう。良かった、じゃない。冴えない半妖の貴方には勿体ないくらいの相手だわ」

「……それは……」

 まだそんな勘違いをしているのか、と思わず呆れとも怒りとも取れる感情が湧き上がる。そもそもの原因を作ったのは君だろうに。すぐに飽きるだろう、適当に流していた僕にも責任はあるかもしれないが。いい加減はっきりと言うべきだろう。衣玖の事を嫌っている訳ではないが、しかし天子の思っているような感情を僕は抱いていない、という事を。

「天子、僕は」

「本当は私の手でくっつけてあげたかったけどね。まぁ結果オーライだわ」

 言おうとして、気づく。まるで僕の言葉を遮らんとするかのように言葉を重ねる彼女の声が、肩が小さく震えている事に。そして、暗くて今まで気付けなかったが……泉から反射した月明かりを受けて、彼女の頬でキラキラと輝く雫。

「天子……」

「あ、あれ……?」

 ようやく、自分がどんな状態なのか気付いたのか、呆然としながらも涙はポロポロと頬を零れ続ける。突然の事に彼女は勿論、僕も何が起こったのか理解出来ずにいた。ただはっきりと解ったのは、気づいた時には彼女の事をギュッと抱き締めていた事だけだ。ぽすん、と桃飾りの付いた彼女の帽子が地面に落ちる。

「あ、う……」

 そして、まるで赤子をあやすかのように優しく、そっと彼女の頭を梳いてやる。
 最初こそ驚きからかキュッと身体を硬くしていた天子であったが、段々と身体から力が抜けて行き、それに呼応するかのように少女の瞼もゆっくりと降りるのであった。





* * *





 ――ザクザクザク、と草の根を掻き分けるような音が、遠くぼんやりした意識の向こうから響いてくる。それはまるで水の中にいるかのようで、夢なのか現実なのかはっきりとしない。ただ一つ解るのは、私の身体がゆらゆらと揺らされている事。まるで揺り籠の中にいるかのようだ。

「う……ん……?」

「目が覚めたかい?」

 未だぼんやりしたままの意識にもはっきり解るほど、すぐ近くから聞き覚えのある声が届く。次いで目の前に広がる銀。どうやら、私は霖之助に背負われているみたいだ。

「私は……?」

「疲れて眠ってしまっていたんだよ。……もうすぐ香霖堂に着くから、それまで我慢してくれ」

「あ、うん……」

 降りた方が良いかとも思ったが、折角何でもう少し彼に身体を預ける事にした。最初は本ばっかり読んでいる貧弱もやしのようなイメージがあったけれども、こうしてみると細身ながらも意外と筋肉質な事が解る。意外な背中の広さに、温かさと安心感が私の中に広がって行った。
 そんな温もりに包まれながら、私はぼんやりと思う。私は何故あんな醜態を晒したのだろうか、と。元々彼と衣玖をくっつけるつもりで色々やっていた筈だ。暇潰しである事は確かだけど、もし本当にくっついたら、その時はからかい半分で祝福してやろう。そうも思っていた。けど、あの時……二人が唇を重ねてる所を見て、私の心は激しく揺さぶられた。まるで、自分の大切な者が横取りされてしまったかのように……大切? 何が?
 その瞬間私は、ぞわり、と身の毛がよだつような感覚に襲われた。まるで、それ以上踏み行っては行けない、と警告されているかのように。しかし、一度流れ始めたそれは簡単に堰き止められるようなものではなく……あっという間に、私の思考を埋め尽くして行く。それはつまり、私はこいつの事が――

「ふぅ、ようやく着いた」

 結論に辿り着きそうになった丁度その時、私の思考を遮るかのようにそれまで黙々と進んでいた霖之助が、安堵の混じった声を零す。見れば、確かに月明かりに照らされた一見ゴミ屋敷な建物の前に辿り着いていた。

「大丈夫か?」

「えぇ……」

 流石に何時までもおぶさっている訳にもいかないので、私は霖之助の背中から降りた。元々廃墟然とした建物ではあったけど、こうして見ると余計にそれが強調されて見える。人外や物の怪の類には慣れている私でも、少し怖いくらいだ。

「……とりあえず少し休もうか。僕も疲れたよ」

 トントン、と腰を叩く霖之助の姿が、言外に私が重かったと言っているようで、少し腹が立つ。とはいえ、道とは言えない道を人一人背負って進んでいたのだから、当然といえば当然の反応なのかもしれないけど。

「お茶でも淹れてくるよ」

 店舗スペースの奥、居間に上がった彼はそう言うと台所へと向かおうとした。それを、私は、


「…………ッ!?」



 ギュッと、後ろから彼を抱き止めた。





* * *




「……天子……?」

 突然、背後から回された少女の腕に、僕の身体は情けなくもピシリと固まったかのように動きを止めてしまう。そんな僕を彼女は、逃がさないと言わんばかりに更に腕に力を込める。……ちょっと、いや割と痛い。だが、そんな冗談を口にする余裕は今の僕にはなかった。

「……これでは動けない。離れてくれないか?」

 ふるふる、と彼女が首を横に振るのを服越しに感じる。一体僕にどうしろというのか――いや、本当は僕も薄々気づいている。彼女のこの行動の、根幹にあるその感情の名に。
 けれどもそれが正しかったとして、僕はどう応えれば良いのだろうか? いやそもそも、僕は彼女の事を何と思っているのか……。今までにも微かに感じていて、しかし明確な答えを出すのを避けてきたそれに、今僕は真正面から向き合う。

「天子」

 以前僕は、彼女が僕の所に入り浸る事を、侵食≠ウれるようだと表現した。それは決して、間違いではなかった。何時の間にか彼女が隣にいる事は当たり前となり、そうでない時には違和感すら覚えるほどだった。結論は、既に出ていた。

「…………ッ」

 そっと、僕は腰に巻かれた彼女の手を引き剥がす。先程まではがっしりと抱きついていたのに、今はまるで埃を振り払うかのようにあっさりと離す事が出来た。そうして振り返ってみれば、そこにはまるで捨てられた子猫のように震える少女。普段は生命力に溢れているその瞳は、しかし今は弱々しい光を放っていて……保護欲と、少々の被虐心を誘う。
 それに影響された訳ではないが、しかし彼女を逃がさんと言わんばかりに、僕はがっしりと両手で肩を抑える。途端、ビクンと天子は身体を震わせた。

「あ、う……」

 明らかに怯えの色を瞳に宿す彼女に、胸の内で謝り、そして、


「――ッ!?」



 彼女の小さな唇に、自分のそれを強引に押し当てた。





* * *





 ――カランカラン。

 聴きなれたその音で目が覚めたのは、まだ日が昇り始めて間もない明け方の頃であった。朝早くに叩き起こされた所為か、或いは昨日の疲れからかまだ身体が幾分か重い。しかし、来訪者がいる以上此処でのんびり寝ている訳にもいかないだろう。
 隣で未だに寝息を立てている天子の頭の下から、彼女を起こさぬようそっと腕を抜き、布団から出た僕は着替えて店舗スペースへと向かう。

「おはようございます」

「……あぁ、おはよう」

 未だ半分寝惚けたような状態の頭にも、凛と響く心地良い声で挨拶をしてきたのは、最近では天子と並んで良く見る顔の永江衣玖であった。何が面白いのか、ニコニコと嫌な笑みを浮かべている。あぁ、実に嫌な笑みだ。何処ぞの妖怪少女を連想させる程度に。

「無事に事が収まったみたいで、安心しました」

 朝早くに叩き起こされた事もあって、不機嫌なのを隠すつもりもない僕を気にする様子もなく、彼女はぬけぬけとそう言ってきた。……やはり、そういう事なのか。

「……君はこうなると解った上であれ≠してきたんだな?」

「ふふ、何の事でしょう?」

 口元に指を当て、可愛らしく惚けて見せる彼女だが、それに簡単に騙されるほど僕も単純ではない。やれやれ、と肩を竦めながら苦笑を零す。
 それをやはりクスクスと笑いながら眺めていた衣玖は、しかし何かを思い出したかのように手を叩き、





「そうそう、大切な事を言い忘れてました――ゆうべはおたのしみでしたね」





















◆後書き◆

T(Tenshi)-ウィルスに感染しました。

2010/2/14:執筆
2010/3/23:掲載











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